幸福とは苦楽を共に前進すること

相対的幸福

可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。
熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。
相対性とはそれである。
~アインシュタイン~
(特殊相対性理論における光速度不変の原理は相対ではなく絶対である。)

相対的幸福とは環境や条件によってたやすく変化する一時的な快感(優越感や満足感)であり、時間の経過とともに瞬時に快感は消え、また新たな快感を求め続ける刹那的で利己的な幸福概念である。
この繰り返しでは煩悩のままに際限なく欲求を満たす必要があるため、必ず苦悩し続けることになる。
この悪しき循環を断ち切るには、将来の夢や希望が絶対的な幸福でなければならない。

コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。
~ドストエフスキー~

絶対的幸福

絶対的な幸福とは、一時的に得られる幸福感はなく継続的に得られる幸福感である。
それは環境や条件の変化に左右されない。
では絶対的幸福とはどのような状態なのか?
例えて云うと、
・競馬での万馬券獲得や宝くじで高額当選したときの快感が永遠と続く。
・ゴルフでのドライバーショットが高結果だった時の快感が永遠と続く。
・オリンピックで金メダルを獲った快感が永遠と続く。
などといった状態なのだ。
「チョー気持ちいい!」という言葉が流行語となったが、この状態がずっと続くありさまを想像できるだろうか。
まさに想像を絶する快感であろう。
偶然であれ、努力の結果であれ、あるいは薬物による幻覚であれ、相対的幸福を維持させ絶対的幸福とすることはできない。

絶対的幸福とは、目的に近づきつつある人生において苦労も喜びも、生活のすべての出来事が奇跡であるかのように生きることをいうのである。
ではどうすればそのような生き方ができるのだろうか?
「気の持ちよう」「心の持ちよう」「考え方次第」などと、様々に言い方はあるがいずれも絶対と同義ではない。

事業の目的の後部に「力を発揮させる」とあるが、どうして「力を発揮する」のではないのだろうか?
理由は「する」であると我のみの単数形となり、「させる」でなければ我と我が友の複数形にならないからだ。つまり単数形の自我ではなく、複数形の大我でなくては「絶対」と同義にならない。
ここにまことの意味が込められている。

さらに“力”とは慈悲のことである。慈悲とは「いつくしみあわれむ」と書き、他者の苦しみを抜いて福楽を与える「抜苦与楽」と同義語である。
「発揮させる」とは自らが他にも教化するということ。教化とは「教導化益」の略称で、徳をもって人々を正しく(善に)導くことを意味し、他者に押し付けるものではなく、自らの体験・姿をもって他者を導くものであり、無論強制するものではない。
逆説からいうと、自我の成長が目的であるならば慈悲なき思い上がった主観的判断によって環境や条件の変化に左右され相対的結論しか見いだされない。
しかし大我の成長が目的であれば我と我が友のために慈悲ある客観的判断によって、いかなる環境や条件の変化にも左右されない絶対的結論が見いだされる。

事業の目的は言い換えれば、
「警備業を通して我と我が友は、大いなる希望を抱き、苦楽を共にして前進しゆく」
という覚悟の断言なのだ。