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株式会社IMS取締役 株式会社アスタリスク代表取締役

榎本 恒

「独立したい」の本気度

榎本 恒

よほどの幸運に恵まれているのでもない限り、スタートしたては恐ろしく苦しいもの。どんな会社でも設立から事業が軌道に乗り始めるまでは、大変なことばかりが次から次へと続くのが当たり前でしょう。
そして、そんなことばかり回ってくるのが自分の定めなんだろうなぁ―いつか私はそんなふうに感じるようになっていました。
もともとが、IMSグループ創業メンバーの一人でしたから、当然のように私も独立して警備会社のトップになることを考えていました。
ただ、いまになって振り返ってみると、それはまだまだ漠然としたもので、その曖昧なところが、結果的に自分自身の自立が遅れてしまった原因だったのかなとも気づきます。
そんなふうに納得しながら、自分でいうのもなんですが、実力はそこそこあったし周りもそれを認めていてくれたんじゃないかな。
だから、建て直しやテコ入れ、サポートといった形でグループ内のいろいろな会社に貢献する役割を果たしてこられたのだ、とも感じています。その点での自負は少なからずありますね。
もともと警備の仕事をしていた私にとって、IMSグループに来るころにはこの仕事に関する大部分のところは、十分分かっているような気になっていました。
ただ、それはあくまで仕事の流れについてのこと。ですから、株式会社CTUの室井社長とペアを組むような形で、同社の立ち上げに邁進していたのは、苦しくも新鮮な経験だったのです。
そんな自分にとって大きな転機になったのは、株式会社伊田電通存続のための資金調達方法としての株式会社IDN設立、という事態でした。
警備業に限らず、どんな事業でも「ヒト」「モノ」「カネ」は経営のための三大要素だといわれます。
商品を販売するわけではない警備の仕事では「モノ」は私たちが提供するサービスですから、それを回していくための「ヒト」と「カネ」の手当てがつかなければどうにもなりません。
しかも、創業時というのは、そのどちらも圧倒的に不足しているのが普通なのです。
IMSグループ設立の過程で、その準備母体として大いに役立ってくれたのが、以前から伊藤社長が経営されていた株式会社伊田電通でした。
ところが、どんなことにもプラスの面とマイナスの面があります。
株式会社伊田電通は社歴を重ねるなかで、経営環境の悪化とともに次第に財務内容が思わしくなくなっていました。
実際、より厳しい見方をすれば、資金繰りがにっちもさっちもいかないところにまで来ていたのです。
年近く事業を継続していたというのは、社会的にみて大きな信用になります。
IMSグループを立ち上げる際には、その点を活用させていただきました。ただし一方で、会社の財務が徐々に悪化を続けてきたことで、新たな資金供給の方策を立てることが非常に困難な状況にまで陥ってしまっていたといえます。


特技はサポートか!?

榎本 恒

こういった場合、いくつかの方策があります。
一番簡単なのは、会社をたたむという選択。実際、私自身も株式会社伊田電通をたためばすむという考え方でしたし、そのように発言した記憶もあります。
しかし、篠田総代(当時代表)の考えは違いました。
「グループの草創期からの仲間を見捨てるような真似をするために起業したんじゃない、決してそんな歴史を刻んじゃいけないんだ」
その言葉がはっきり残っています。そうなれば、資金繰りが可能なように、なんとしてでも手段を考えなければならないということになります。
そこで白羽の矢が立ったのが私でした。
公的な金融機関から事業資金を借り入れるためには、決算書がきれいであることと担保が必要です。
ところが株式会社伊田電通はその条件をクリアできません。そこで、同社の関連会社として株式会社IDNを設立して事業を一体化、その取締役となる私が保証人となって公的融資を受け入れるということになったのです。
保証人といっても、私一人の信用では不足だというのは明らか。担保がいります。私は実家に戻り、両親に家を担保にさせて欲しいと頼みました。じつはこれは私の奥の手。
本当は、自分自身が会社を立ち上げるときに使いたいと考えていた方法でした。しかし、成り行き上、仕方ありません。あとから考えても、少し無茶すぎる自分勝手な依頼に、それでもしっかり応えてくれた両親の気持ちを決して無にするモノかと、私なりに改めて覚悟を決めました。
それはいまもはっきりと記憶に残っています。それからおよそ2年弱、自分なりに精一杯頑張ったというのが正直なところです。株式会社伊田電通は最悪の状態から抜け出すことができました。
その過程で、株式会社伊田電通と株式会社IDNを分離させる目論見も実現可能になってきていました。
もちろん、すべてが順調というわけにはいきません。
株式会社IDN設立から1年経っても、グループの内部目標であり、自立の一つの目処でもある月間1000万円の売上がどうしても達成できなかったのです。
さんざん算段して「今月こそ」と意気込んだ平成22年の11月が、いくつかの残念な結果が重なって達成できなかったときは、一瞬、もう目標には絶対手がとどかないんじゃないかなどという絶望的な気分にもなりました。
そんななか、篠田総代が
「オレのいうとおりにすれば、1000万円なんか絶対に達成できる。それもすぐ来月にでも」
というのです。
ごく普通に考えれば、翌月は12月です。年末年始の休みを挟むことから、一般的には必ず売上は減少してしまいます。
ところが不思議なものです。翌月には同じような状況のなかで、気がつくと目標に到達していたのです。
あっけないほどでした。
本当はここで、篠田総代から示された奥義ともいえるその方法に触れるべきかもしれません。しかしそれは必ずしもフェアーとはいえないと思うのです。
なにもここで明かさなくとも、グループのこれからの担い手が成長していくにあたって、必然的なタイミングで各自に伝わっていくべきものだというのが私の考えです。
アドバイスを受け入れる側にも、準備が必要なはずです。また、そのときに適切な手ほどきができるように、我々アドバイスを送る側はさらに研鑽が必要でしょう。
そのときを待つことにして、いま伝えられる大切なことを述べておきます。
それは、投げないこと、腐らないことです。
私は、いくつかの会社の立ち上げに関わってきたなかで、早く成果を出すことに集中するあまりに、どちらかといえばルールも破りがちで、勢いを最優先して後ろは振り返らない! というようなタイプだったと思います。
人の会社の立ち上げに関しては、ブレーキを踏む方のタイプではありませんでした。それが功を奏したと思っています。
ところが、いざ自ら株式会社アスタリスクをスタートさせたとき、その違いに愕然としてしまうほど、まったく違う運営になってしまいました。
グループ内の取締役たちからも注意されるほどのマイナス思考が、首をもたげてくることになるのです。


二度あることは三度

榎本 恒

私も含めた関係者全員の努力の成果が、いまやはっきりと数字に表れるようになっていました。株式会社伊田電通と株式会社IDNを分離させても、もうそれぞれでしっかりやっていけそうだという目論見が実現可能なところまでこぎ着けていたのです。
分離独立が成立すれば、私は株式会社IDNのトップとしてグループの設立当初から志向してきた一国一城の主になれる。
回り道はしたかもしれない、でもやっと……その見取り図が、少しずつ現実のものに近づいていたはずでした。
ところが、そこに益田社長の株式会社SCSが登場します。平成23年7月でした。益田社長はグループの将来性を見込んでIMSグループに加わってくれたわけですから、その立ち上げは全社的に応援したいというのが私たちの根本にある考え方です。
ただ、口に出してしまえば単純ですが、実際にメンバー全員でサポートするなどというのはできっこありません。
「じゃあ、誰がやる?」
「榎本だろう」
「ああ、榎本ならできるし、いままでやってきたことを活かせる!」
「どうなの、榎本⁉」
「ええ、やらせてください」
「よし、全員で応援していこう」
こうして私は株式会社SCSのサポートをすることになったのです。
ただ、それは一種の罰のようなものだったかもしれません。

 

私の胸の奥にはずっと刺さったままになっている鋭いトゲのようなものがありました。
それは、株式会社IDNへの異動が決まった一番最初の援軍に際してのことです。私は株式会社CTU立ち上げの苦労を二人で分かち合い、さんざん世話になってきた室井社長を置き去りにするような真似をしてしまったのでした。
株式会社伊田電通=株式会社IDNの問題に関して、じつは私にはもう一つの選択肢もあったのです。それは室井社長とともに株式会社CTUを続けるというものでした。
資金ショートさえ避けられれば、当面、株式会社伊田電通の危機的状況は回避できます。
もちろん人財面でのテコ入れは不可欠ですが、それはどうしても私でなければいけないというものでもなかった―普通に考えれば、やっと目処がついてきた株式会社CTUの方が自分にとってもはるかに大切なのは当たり前です。
もともと、株式会社CTU設立当時から
「3年が目処。ここで基盤ができたら、すぐにでも独立のための営業所を自分で立ち上げたい」と宣言していたのが私です。
室井社長もそのつもりで、「CTUからの発進第一号はお前だ」と日頃から繰り返してくれていました。
だから、最終的に株式会社伊田電通=株式会社IDNの体制を決めるグループ会議に向かうクルマのなかでも「オレはしっかりCTUを続けるつもりです」と話していたのです。
それが……
「榎本、どうするの?」
(間髪入れず)
「はい、やっていきます。IDNは任せてください」
会議で、誰が株式会社IDNを回していくかという話になり、篠田総代(当時代表)に最初に声を掛けられた私は、思わずそう答えていました。横顔に室井社長の刺すような視線を感じましたが、もうあとには引けません。
「やるからには恥ずかしいことはしない」
そう覚悟を決めるのがせいぜいだったのです。
思い起こしてみると、知らず知らずのうちに自分を切所に追い込んでいたのかもしれません。
ただしそのおかげもあって、株式会社伊田電通=株式会社IDNの案件はどうにか形にすることができたのだといまも信じています。


自分の会社を持って分かること

榎本 恒

平成26年1月、株式会社IDNを株式会社アスタリスクへと社名変更し、結果的に私はIMSグループの一員として独立を果たすことになります。
振り返れば、ここを自分の居場所と定めたのは平成20年の春でした。考え方にもよりますが、やはりさんざん寄り道をしてしまったことは事実でしょう。
しかしどんな道であれ、最後に目指すところへ到着できるなら、その道は正しい道だといえるはずです。
その意味では、私のやってきたことが間違いだったなどということは少しも感じていないのです。
ただし、そこへ至るまでに私にはもう一度果たしておかなければならない義務のようなものが待っていました。
それが株式会社SCSの拡大です。
話は平成24年に戻ります。そもそもは私がサポートに回っていた株式会社SCSが仙台での業務を確保、営業所を立ち上げることになったのが発端でした。
自分たちの信念に基づいた警備業を日本全国に行き渡らせたい、というのはIMSグループ設立当初から主要メンバーに共通する思いだったのです。
スタートから5年目に入り、首都圏では着々とネットワークを広げつつあったIMSグループにとって、仙台の営業所は次の一歩へ向けた重要なステップになるものです。
当時在籍していた株式会社SCSが母体となったというのも大きな理由でしょうが、私たちの関東圏以外で初めての事業スタートにあたり、そのキーパーソンに選ばれたのは、自分自身少なからず心がふるえました。
ただし、そこには多少とも大変な仕事を抱え込んだな、というものがあったことも事実。
なんだか、知らぬ間にIMSグループの切り込み隊長のようになっている自分を、少し不思議に思っていたのです。
とはいえ、そんな感傷に浸る間などなく、現実は奔流のように進んでいきます。3月に立ち上げた仙台には、5月から常駐。6月には事務所設置、翌月第1号の隊員を採用して仕事が始まります。
このようにしてほぼ1年間にわたる私の仙台プロジェクトがスタートしたのでした。
東北の中心である仙台をハブと位置づけ、IMSグループ本部との一体化をパワーの源泉にしながら、仙台、および他県にまたがるネットワークを構築する役割が求められていました。
そう考えてみると、自分自身、株式会社CTU立ち上げからの4年ほどでずいぶん力をつけてきたことに気づきます。
株式会社CTUでは室井社長とともに事業立ち上げを一から経験しました。それまで警備業界で身につけてきたさまざまなスキルを、経営の場でどのように利用していけばいいかを実地で目にし、さらに試してみることができたのです。
しかも、立場としては従業員でしたから、室井社長のように大きな責任を背負い込まずにすむという自由まで与えられていました。
その点では、次の株式会社IDNには大きな違いがありました。事業資金導入のために実家を担保に入れざるを得なかったからです。
その際には、初めてリスクを負うことに緊張。ただし、株式会社CTUで身につけたものがありましたから、自分のやっていることが失敗に終わるかもしれないなどという本当の危機感のようなものは感じずにすみました。
そして株式会社SCS。こちらも益田社長のサポートですから、表面上はどれほど大変で忙しくみえても、心労の程度を比べてみれば所詮は背負うものが異なります。
ところが、仙台は少しばかり勝手が違ったのです。
IMS本部のグループ会では、いつのころからか現在の針生社長に仙台を任せるということが合意事項となっていました。
ただし、一つ問題がありました。それは当の針生社長が、仙台での仕事、あるいは仙台での状況を否定的に見ていたことです。
私のケースでも同じでしたが、本人の考えや望みとIMSグループの判断に差が出てくることもあります。
ただ、ほとんどの場合、大局的な見方から導かれる方針、つまりグループの指導が良い結果につながるのではないでしょうか。
簡単にいえば、平成24~25年にかけて私は仙台での下固めに従事しました。針生所長の誕生に向け、自分にできることをして引き渡す。
責任者となった針生さんはそれから数年苦労することになりますが、株式会社Eガードの代表取締役となった現在は、きっと本部の意図に感謝しているはずです。
自分一人で成長していける人間はほんの一握りです。私を含め、ほとんどの人間は先輩や仲間たちに叱咤され、励まされ、引っ張り上げてもらいながら一人前になるものです。
その上で、次には自分にその役割が回ってくる。ずいぶん横道をたどったように感じたこともありましたが、自分が独立してかつての株式会社IDN、現在の株式会社アスタリスクの代表者となって初めて分かったことは数多くあります。
私自身もまた、IMSグループだからできたことの一つの証明なのです。


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