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突然の仙台行き

針生 徹

平成29年4月、株式会社Eガードがスタートしました。私は代表取締役。IMSグループが仙台での活動を開始してから5年で、ついに東北最初の拠点が独り立ちしたのです。もっとも、そのときにまず私の心にあったのは、仙台の社員や隊員さんたちのこと。
グループ内の独立基準を達成して、それまでの事業所から会社としての立ち上げに成功した形の株式会社Eガードでしたが、その事業は決して安定し確実な成長基調にあるとまではいえません。そのことは、私が一番よく知っていました。
それでも営業所がIMSの子会社に昇格してもおかしくないだけの成績を上げられたのは、この地で育ってきた社員と、いまでは30人規模にまで増加し定着している隊員さんたちの、日々の活動からです。仙台は間違いなく東北の中心都市といえます。
ただし、そうはいってもやはり首都圏・東京とは比べものになりません。もし、株式会社Eガードの屋台骨が揺らぐようなことになれば、ここまでやってきた仲間たちの生活にも、大きな影響が出てしまうことは確実なのです。
そう考えたのが、会社の代表者としての責任感なのかどうか、それはまだ私には分かりません。ただし、5年前に初めて警備の仕事で仙台にやってきたときと比べれば、私自身がまったく変わっていることは確実。間違いなく、ここでの仕事が私を成長させてくれたのです。
「仙台がどうにも回らない。榎本社長が一人で頑張ってるんで、3日間だけ応援にいってくれ」
当時、在籍していた株式会社CSIの山田常務からいわれたのは平成24年の7月でした。
同じく応援にいくという株式会社伊田電通の伊藤社長のクルマで、仙台までの道をひた走ったのをいまも覚えています。なぜなら、
「3日間」どころではなく、
私はそのまま1カ月以上も仙台に居続けることになったからでした。その前の年、平成23年3月11日に起こった東日本大震災で東北の太平洋岸は恐ろしい被害を受け、大変なことになっていました。岩手出身の私はずいぶん辛いニュースを聞きました。
IMSグループの幹部の間でも
「なにか自分たちにできることはないか」と、
真剣な話し合いが行われたと聞きます。ただ、結果的にはその時点ではいいアイディアが出てきませんでした。しかし翌年になって、宮城で事業を展開する同業者の株式会社エス・ピー・ネットワークから、現地での協力を打診されたのです。さっそく榎本社長を中心に事務所を設置。
警備事業を通じて少しでも東北復興をサポートしたい、という以前からの想いに応える仕事が始まっていたのです。
ところが、グループ全体の仕事が忙しくなってくるとともに、どうしても仙台は後回しになっていきました。現地での隊員採用や育成が滞ったことも重なり、結果的に、そのころには現地に詰めていた榎本社長がたった一人で、すべて担当しなければならない状況に陥っていたのです。ただし「3日間だけ」といわれ、着の身、着のままで仙台へやってきた私にとっては、まずなによりも不満ばかりが嵩じていました。
最初に仙台の地を踏んでからほぼ1カ月、一緒に来た株式会社IDNの隊員さんは、東京に帰り、自分も「帰ってこい」の声を待ちましたが、声もなく、爆発してしまい、榎本社長に「嫌悪感」を覚えて、1カ月半後に東京に戻り、山田常務に、声を大にして「もう仙台には二度と行かない!」と主張・宣言したのは、そんな気持ちからでした。
ところが、自分でいうのもおかしいのですが、人が良すぎるのか楽天的なのか、帰京後それほど経たない時点だったにもかかわらず、
「榎本さんが本当に困ってるんだよ、針生を指名している」といわれ、巡回訪問を切り上げて自宅に戻り、1週間分の着替えを持ち、急いで新幹線に乗り、車中から妻に再び仙台に行くことを告げました。しかし、仙台に着くなり、榎本社長から一言「なにしに来た、応援頼んでないよ」でした。
帰京しようにも、なけなしのお金で仙台に来たので、帰れません。
腹のなかでは、「また、山田常務に騙された」と思いましたが、1カ月後には帰れると思い、辛抱しようと思い、仙台に着いたのです。
しかし、結果的にはその滞在は5年以上に及び、IMSグループ初の在地方子会社である株式会社Eガードの代表者として、グループの主要メンバーの一人にまでなったのです。
「針生、大丈夫か、手伝いに来たぞ」
びっくりしました。
私の目の前に立っていたのは、現株式会社アスタリスクの榎本社長だったのです。
そのとき私は疲れ果てていました。話は平成26年の10月のことでした。それまで自分で管制を行ってきて、十分対応がとれるようになったと思い込んでいました。
いまにして考えれば、単なる思い上がりです。想定外の事態が重なり、現場に出てもらう隊員がいなくなってしまったのです。どうしようもありません。
私が引き受けた仕事先へ向かいました。8時から17時まで現場に立ち、事務所へ戻ります。そして20時から翌朝5時までまた現場です。
もちろん、事務所にはこちらも代わる者のいない管制業務が待っています。これが3日間繰り返されたとき、榎本社長の声を聞いたのでした。
確かに、東京(山田常務)・千葉の株式会社SCSにはSOSを出しました。でも、真っ先に駆けつけてくれるのが榎本社長だとは夢にも思いません。
つい数カ月前まで私は株式会社CSI所属でしたし、仙台事務所の位置づけは益田社長の株式会社SCSの営業所だったからです。さらに榎本社長と私の間には、少なからぬわだかまりのようなものがありました。


雨降って地固まる

針生 徹

「オレはお前を管制だなんて思ってない!」
「じゃあ、いったいなんで呼んだんですか!?」
仙台への応援にかり出される前まで、私は株式会社CSIで管制と新規開拓を担当していました。自分でいうのもなんですが、そこそこの出来だったと思っています。
もちろん、IMSグループではグループ内での相互サポートは当たり前のことです。人手が足りない営業所に出向けば、当然、隊員さんたちの代わりに現場に立つことだってあります。
ただ、仙台では榎本社長は本当にほとんど一人でやりくりしていたので、そこに入った私は日々現場の応援に立ちながら、当然のように管制業務もこなしていました。それを突然のように、そんないい方です。
人員も時間もギリギリのなかで回していましたから、二人ともずっと限界状態に近い状況に置かれていたのは間違いありません。精神的、肉体的に疲労がたまりきったなかでは、なにかほんの小さなつまらないことがきっかけになってしまいます。このときがそうでした。
いまになってみると、どんなことだったか思い出せもしないようなことで、一気に怒鳴り合いにまでなってしまったのです。おそらく双方に不満がたまっていたのでしょう。私に関していえば、ずっと後になるまで、うまく引っかけられて気がついたら仙台で仕事せざるを得なくなっていた、というふうに感じていました。
同じ事務所に寝泊まりして、四六時中面つき合わせていた榎本社長の方は、そんな私の煮え切らない態度や不満げな言動を、いつもうっとうしく思っていたのでしょう。他にもいろいろあります。一時的なサポートだという気分がどこかにあった私は、一所懸命のつもりでもどこかお客さん感覚から抜けられません。歯がゆい思いの榎本社長も、自分の部下なら怒鳴りつけるかもしれませんが、一応、私はグループ内の別の会社の人間ですから、そう単純にはいきません。そうでなくとも、大の大人が1カ月以上も同じ部屋で生活しているのですから、面白くないところや不満に思う部分が出てこない方がおかしいのです。
その結果の衝突です。もちろん、二人とも大人ですから一時の興奮が冷めると、お互いわびを入れて解決。ただ、それは表面的なことで、心のなかには相手に対しての強い苦手意識が住み着いてしまいます。
ですから平成26年4月、榎本社長が東京へ帰られることになり、正式に私が仙台営業所を率いることになったときには、仕事が大変になる! という危機感はあったものの、それ以上にやっと目の上のたんこぶがなくなる、という解放感のようなもので一気に気持ちが楽になりました。
ところが、そこで私の悪いところが出ました。安心したとたんに、無意識にアグレッシブさが消え去ってしまうのです。その結果、それからわずか半年で本部に助けを求めなければならないような状況にまで、追い詰められてしまいました。

 

「誰でもいい、このままじゃ死んじゃうよ、助けてください、お願いです……」
そんな気持ちでした。
そして、強力な助っ人登場! 確かに、能力は折り紙付きだし、仙台の土地勘やこの土地での仕事についての知識もあり、隊員さんたちやお客さんとの間にはしっかりしたコネクションまである―そう考えると、どう考えても榎本社長以上の適任者はいません。
ただし、榎本社長の方でも私に苦手意識を持っているという状況は同じはず。たとえ応援に指名されても、絶対に受けてくれることなどあり得ないと思い込んでいたのです。
だからこそ、その榎本社長が目の前に立ち、
「大丈夫か、手伝いに来たぞ」
といってくれたときには、恥ずかしい話ですが涙が出そうになりました。
「仲間っていいなぁ、なにか揉めていたって、いざというときには助けに駆けつけてくれる」
私が、本当の意味でIMSグループのメンバーになったのは、ひょっとするとこのときからなのかもしれません。


仙台だけでやっていけるといえた日

針生 徹

それまでの私についていえば、多少自暴自棄になっていたかもしれないというのは確かなところでした。
本当のことをいえば、岩手県出身ということもあり、グループ内で東北での業務開始という話が出た際には、きっと自分に声がかかるのでは、と考えました。
ところが、なんの話もありません。榎本社長が仙台営業所を立ち上げたものの、大きな方針が見えないなか、グループ内の共同運営のように思えるような話が伝わってきたり……かと思えば、短期間の応援といわれて行ってはみたもののいつまでも帰れない。
榎本社長と二人でまるで島流しになったような状態が続き、その榎本社長さえ東京へ呼び戻されると結局は私一人です。
もう一つ告白すれば、他の社長たちと違い私は独立したいと思ってIMSグループの門を叩いたわけではありません。もしそうであれば、仙台での機会を絶好のチャンスと捉えることができたかもしれないとは思います。
でも、大前提が違うのですから、私にとっては最悪の状態が続くのがはっきりしたというだけだったのです。心のなかでは、まったく正反対の二つの感情がせめぎ合っていました。一つは「見捨てられたのなら、必ず見返してやりたい。
業績を上げて絶対振り向かせてやる」というものです。ただし、その反対の投げやりな気持ちも強かったのです。それが「オレなんかに任せているんだから、会社もそれほど考えてないんだ。やるだけはやるけれど、ダメなら要は潰しても構わないということだよな」でした。
ただし、そんな気持ちでうまくいくほど、仕事は甘いものではありません。任された以上、いざというときに東京に頼らなくてもいいように仙台をまとめ上げなければいけない、そのためには頼れる片腕が必要―そう考えて現地で採用した社員を精一杯育てようとしました。
しかし結果的には彼はわずか2カ月で退社してしまいます。自分で仕事ができるようになることと、それを周りの人間に教え仕事ができるようにすることは大きく違うということが身に染みました。同時に、なんとなく自分一人でできるようになってきたような気持ちになっていたことが思い上がりで、ずいぶんいろいろな人からいろいろな形で教えられ、助けられてきたんだということに気づいたことも大きかったように思います。
ただし、それが転機でその後が順風満帆かといえば、現実はそれほど甘くありません。
映画や小説とは違うのです。
でも、着実に変わってきたのは間違いありません。私が初めて仙台に来たときから1年半ほど経っていました。最初のうち
「本当に仙台で隊員が集められるだろうか」などと、
毎日のように恐れていたことが悪い夢だったように、そのころには現地で採用した社員も定着がみえてきていましたし、隊員さんたちの陣容も整っていました。

 

それからさらに数カ月―。
「これまでのグループからの応援、本当にありがとうございました。どうにか仙台だけでやっていけるようになりました」
ただし、そんな業績が確実なものとなり、晴れて「仙台独立!」とお墨付きをもらうには、それからさらに3年は必要だったのです。
それも、伊藤代理(株式会社アイデン社長)のアドバイスにより、グループ規定である4月に500万の売上ができて、晴れて分社独立の権利を勝ちとることができたのです。
自分一人ではなく、仲間の助けがあり、上司のアドバイスもあって、達成できたと思います。実力も実績も簡単にはつきません。
愚直でもいいのです。ただし投げないこと、諦めないこと、そしてIMSというグループの真実を信じ続けることです。それが裏切られるようなことは決してありません。
ところで私なりに、株式会社Eガードには大きな使命があると考えています。なんのかんのいっても、日本の中心は東京–首都圏です。
IMSグループには警備業2号業務の全国制覇という目標があります。ただし、東京で事業活動をしているとどうしても東京が中心となり、地方まで目が届かないことが多いのも現実です。
だからこそ私たちがここで活動している意味が出てくると思っています。仙台は東北地方の中心。そして株式会社Eガードはこの仙台から首都圏を目指して事業を広げていこうとしています。
岩手や青森、秋田や山形はもちろんですが、より具体的には宮城から福島、茨城へと南への進攻に力を注いでいかなければなりません。私が仙台へやってきた当時からすでにその種まきは始まっていました。
これからはその種を育てるために自分の力を使っていくことです。それが私をここまでリードしてくれたIMSグループの期待に応えること、そして私と一緒に仙台で立派に事業を立ち上げてくれた、株式会社Eガードの社員や隊員さんたちの将来を明るいものにしていくことにつながるはずです。


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